体感型アフリカツアー

いつの訪問だったか、ガイドで友人のサムも言っていたが、こういう所へ来るのはセンシティブ(微妙な感性?)が要るよな・・・って、確かにそうだと思う。勝手にまた想像を膨らませたりもする。”ほんとうに人を殺しているのかな・・・””レイプはどうなんだろう”あるいはまた”薬はやっているのだろうか”などなど。取材できているのではないし、ましてや若い女性も多いツアーだ、十分な気持ちの整理ができないまま扉を開けてしまう。

 

ある時、そんな気持ちに揺れながら彼ら(元少年兵)と向き合っていた。すると突然、横にいたガイドのMが(サムと同じくらい付き合いの長い友達だ)、”how many you killed in Congo”と元少年兵に向かって聞いた。いきなりの質問だったのでちょっとびっくりしたが、アフリカ人は相手の立場をわかっていながらもこういう点は意外とストレートだ。

 

すかさず一人の元少年兵(15,6歳)が「ten(10人)」と答えた。一気のやり取りだった。Mはフッーと小さな声を上げ、首を軽く横に振った。さらに”by what?”(たぶんマチェット(ナタ)か銃かを聞きたかったのだ)とたたみかけた。”SMG”。一瞬、元少年兵の顔が輝き、どことなく誇らしげだったのをオレは見逃さなかった。SMGとは、文字通りSAB-MACHINE-GAN(この場合AK47攻撃用軽機関銃)の略だ。

 

こんなこともあった、数年前の訪問の時参加した学生(男子)が「銃を持ったことはありますか」と聞いた。答えは「君は銃を持ったこともないの?!」だった。アフリカの戦場リアルと日本の日常の間には埋めきれない溝があるように感じた。ただそれでもリアルに一歩でも近づくこと、迫ることは人間としてものすごく意味があると思う(ただこの辺りが今の日本社会では、IT等の技術の急速な進歩もあってかかなりあいまいになってきていると感じているが)。

 

SMG!とやや誇らしげに答えた彼は、しかしこれから将来、歌手になることが夢だと言ってはにかみながら二つほど歌を披露してくれた。遠すぎるコンゴのジャングル、そこで繰り広げられる人間のサバイバル。


・・・何回目かな、そんな思いを抱きながら甲斐先生とみんなを車に残し、サムと二人で初めのあいさつのために鉄の扉を開けた。確か前回の訪問の時、どういう気持ちでここに来るのかについてサムが話してくれた。それは”ワタシタチはあなた方(センターと元少年兵)にリスペクトの気持ちを持っていつも会いに来るのです”。けど、人を殺したことがあるかもしれない元少年兵たちに会うのに何故リスペクトを払わなければならないのかといった素朴な疑問が湧くかもしれない。実際、授業でそういった質問を受けたことがある。

 

なかなかオレタチには分かりにくいかもしれない。サムの気持ちはこうだ。先の悲劇的事件−−ルワンダ内戦/虐殺でたくさんの人、被害者も加害者もすごく苦しんだ。自らの意志に反して人間の極限を体験した者も多い、とくに女性や子供たちはそうだ。でも彼らは生き残り、今も傷つき苦しみの中で生きている。だから・・・こういうところに来るには、どこか相手を尊敬?、思いやる気持ちがないと来れないんだよ。たぶんそうしたことに対して尊敬という言葉を使ったのだと思う。

 

サムもまた94年以前のルワンダの戦いの犠牲者(難民としてウガンダに避難)の一人だった。それほど今もなお、ルワンダ人にとって20余年前の悲劇は辛く、忘れられない出来事だったということだ。そう言えば前回も書いたが、スタディ・ツアーと名乗ったこの旅もまた、すべてがリスペクトの旅−−訪問するのではなく、訪問させていただく旅だと思う。

 

鉄の扉の向こうには、石ころ混じりのゴツゴツな庭、敷地が広がっている。バレーボールのネットが張られた向こうに元少年兵たちが寝泊まりするドミトリーがあり、その手前に庭へと降りる階段になっている。部屋と階段の間の狭いスペースにはすでに10個くらいの歓迎用の大きな太鼓が並んでいた。顔なじみになったカウンセラー、ナース、そして所長の3人がいつものように笑顔で迎えてくれた。簡単なあいさつの後直ぐにオレはみんなを呼びにバスに戻った。

 

オレタチが中に入ると、少年たちが叩く太鼓が一斉に鳴りはじめた。前回来たときは30人くらい(13歳〜18歳)いたが今回は意外と少なく20人いるかいないくらいだった。センターは彼らの定住場所ではなく、仕事が見つかり、家族と再会できた者はセンターを出て行く。最大の目的は社会への再統合(reintegration)なのだ。一応3か月くらいが滞在の目安らしい。ただ現実には、社会へ溶け込み、学び、また仕事を続けることは簡単ではないと聞く。

 

みな初めての元少年兵との出会いである、きっとどこかに戸惑いと、何をやっているのかも分からないままゆっくりと、彼らに近づいてゆく。目の前の太鼓の音がどんどん近くなり、元少年兵たちは目の前だ、階段の上で叩いている彼らを少しだけ見上げるような格好になる。オレはカメラを回している。元少年兵、そしてみんなの表情を交互にとらえている。みんなの目は元少年兵たちに釘づけだ、彼らは何かを感じている。反対に太鼓を叩きながら元少年兵たちは何を見ているのか、感じているのか。

 

所長のラファエルがいきなり、太鼓の列に近づき踊り始めた。続いて甲斐先生が両手を広げながら、所長に続いた、一瞬みんな驚いたようだ。スタツア、元少年兵、いきなり踊り出す先生。ただなんだか分からないが、空気が結構熱くなってきていた。先生が「みんな何してるんだ!」「踊らなくてどうする!」。眺めていた学生たちも直ぐに太鼓のリズムに合わせて踊り始めた。オレは彼らのところに行って太鼓を叩きなよ、と言った。直ぐに何人かが太鼓の列に加わり、少年たちを見ながら叩き始めた。単調だが、力強い鼓動がセンターの空に響いた。

 

オレはさらに、少年たちに降りてきて踊るように促した。二人、三人、そしてもう少し・・・少年たちは踊り始めた。足で地面を叩く度に砂煙が上がった。2人が対面で向き合いながら身体を揺らす。リズムは思いの外ゆっくりとしたオフ・ビートだった。学生たちが手を叩く、コンゴのジャングルの中でもこういう風に踊っていたのか、勝手に想像した。オレは何故か、以前に観たR.デカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイアモンド」の一シーンを思い出した。映画の中ではヤクザな兵隊たちに薬漬けにされた少年兵たちが、”殺せ!殺せ!”と大人たちにののしられながら銃を手に踊っていた。

 

少年たちは直ぐに踊りの世界に入っていった。たぶん、こうしたことが何かの折々に、時に夜になってもコンゴのジャングルの中で行われていたに違いない。目の前の少年たちの額からは汗が流れ落ち、ギャラリー(学生たち)に囲まれているせいもあってか、少年たちも何となく入っているような気がした。やがて学生たちも踊り始めた。踊りが好きなオレだけど残念ながらひたすらカメラを回していた。やがて踊りの輪は崩れ、いくつかの小さな輪となり手拍子と笑い声がいつまでも続いた。

 

それから、少年たちにそれぞれの自己紹介をしてもらった。名前、年齢、そしてどのくらいコンゴで少年兵だったのかなどなど。13歳の少年もいた。最年長は18歳、いや20歳もいたかな、その後みんなで肩を組みながら唄った。少年たちは少しは楽しめただろうか…何もできないオレタチだけどとにかく君たちに逢いに来たよ。これはあくまでも出逢いなので、詳しい取材はできなかったけど、まったく違った世界に生きてきた君たちのことを少しでも知れただけでもうれしいと思う(これはオレの個人の感想です)。

 

唄の後はバレーボールだ。本当はサッカーがいいのかもしれないけど、なにせ地面が石ころが多くゴツゴツしている、昔背後にそびえるビルンガ火山が爆発した時に降り注いだ火山岩だろうな、とてもフットボールができる地面じゃない。その分みんなバレーボールは上手だ、オレタチも二手に分かれ彼らに混じってチームを作り遊んだ。オレはここでもカメラを回していたが、とにかく笑い声が絶えずみんなすごく楽しそうだった。時には珍?プレーも出て元少年兵たちの目も真剣だ。みんなの額からは汗が落ち、楽しそうな声がいつまでもセンターの庭に響いた。

 

どんなに楽しくても時はあっという間に過ぎてゆく。やがて別れの時が近づくと、あちこちに小さな輪ができてスマホ写真を撮ったり、話をしたり、とっても名残惜しそうだった。オレタチは日本に帰る。君たちはこの後、どうなるのかな、うまく家族や仕事が見つかり、また学校に行けるといいね。オレタチはそれぞれが持ち寄ったわずかばかりのお土産(文房具が多い)を渡した。最後にもう一度太鼓を叩きあって本当のお別れの時が来た。オレタチはいいかもしれない、何故なら旅だからだ、次がある。でもここに残された彼らの心、気持ちはいったいどんなんだろう・・・考えると、とても寂しくなってくる。所長、ナース、カウンセラーの3人にも最後の挨拶をしてオレタチはセンターを去った、帰りのバスからみんな手を振っていた、少年たちも手を振っていた。

 

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