体感型アフリカツアー

夜中に何度か目を覚ましたが、2日目の朝を迎えた。隣の部屋のKさんを起こして、朝食に行く。朝の空気が気持ちいい。ほどよい光が庭の緑にそそいでいる。”Habari za asubuhiおはようございます”(スワヒリ語)。つい最近、ルワンダ語、英語、フランス語に次いでルワンダの第4公用語になったスワヒリ語、近年さらに話す人が増えている気がする。その理由はタンザニアにあった難民キャンプ育ちの人で内戦終結後ルワンダに帰った人たち、仕事でタンザニア、ケニヤ、東コンゴなどスワヒリ語圏を旅していた人たち、あるいは国連、NGOなどの仕事で東アフリカに赴任していたひとたちなどよってもたらされたのだと思う。またすぐ隣のコンゴの東側ではベルギーの植民地支配時代以前から、東アフリカ海岸部のアラブ(奴隷)商人たちによってスワヒリ語がもたらされ、かなりの範囲で話されてきた。余談だが、東コンゴ、キブ州の州都ゴマ(Goma)から400kmくらい西に入ったワリカレ(Walikare)でもかなりブロークンだがスワヒリが話されているのには驚いた。スワヒリを話せると、とくにローカルな仕事の幅が広がることは間違いない。どんな村にも入って行けるからだ。

 

スタッフにあいさつを交わし、コーヒーをたのんだ後、オムレツを注文しにオムレツ担当?のおばさんのところに行く。「スパニッシュ・オムレツをお願いします!」 おばさんは早速目の前で卵を割り、細かく刻んだピーマン、トマト、玉ねぎをかき混ぜる、オムレツは後で取に来るとして、トマトソース煮の豆、焼きトマト、ソーセージ、パンがおいしいので欲張って2個、さらにバターとハチミツ、ついでに果物も一緒に皿に乗せテーブルに帰る。朝からこんなに食べていたら痩せるワケがない。ちょうどウエイトレスの女性がコーヒーを持ってくる。空気のせいで朝のコーヒーは格別にうまい。最近は身体のことを考え、日本から緑茶を持参し、それも一緒に飲む。困るのはどちらも利尿作用が強いので、トイレが近くなることだ。三々五々みんなも起きてきて、それぞれのテーブルで朝食を食べる。


出発時間近くになると、みんな荷物を持ってロビーに集まる。若さから自然に元気なオーラがロビーにあふれる。オレは”今日の体調は大丈夫かな・・・”なんて自問している。なにせ、この歳になると体調との戦いみたいなものだ。実際、日本を出発する前の2日間、連続で中国気功整体に通った(笑)。玄関に横付けされた20人乗りくらいのバスに乗り込む。人数も多く荷物は積めないので別に用意されたランドクルーザーに荷物を積み込む。いよいよルワンダの旅の始まりだ。みんなの目は輝いていた。何もないことを祈りつつ車はホテルを出た。必ずだが、一日の始まり−−朝は運転手、ガイドに力を込めて挨拶する。その感触が時に今日一日を決める、あるいは占うことになる・・・そんな空気をいつも感じながらアフリカでは仕事をしている。この時、9割のアフリカ人は、「ぐっすり寝た!」「最高の朝だ!」という答えを返してくる。残りの1割はほんとうに調子が悪い時、「頭が痛い」とか「腹の調子が良くない」とか言ってくる。そういう時は「無理しないで」とか言って頭痛薬とか腹薬を渡す。

 

15分も走れば最初の目的地「キガリ虐殺メモリアル(記念館)」だ。丘の斜面に建つ記念館の前の敷地の下には現在約25万の虐殺の犠牲者たちが眠っている。記念館は2000年にキガリ市とイギリスのAEGISというNGOが中心となって建てられた。ロンドンに本部を置くAEGISは現在、虐殺阻止の世界的キャンペーンを展開している人権NGOだ。キガリ虐殺記念館には、だからルワンダ虐殺だけでなく、ナチスドイツのホロコースト、そしてボスニアで起きた虐殺関連の写真、資料も展示されている。記念館は他にカナダ、アメリカ等の財団、NGOの支援、入館者の寄付などによって運営が維持されている。

 

入り口で簡単な説明を受けた後、隣の部屋でルワンダ虐殺のビデオを見せられる。その後展示を順次めぐってまわる。植民地支配以前のルワンダと文化→ベルギー支配時代→ツチ・フツ間の国内政治抗争、権力争い→ハビヤリマナ大統領の死(飛行機撃墜)→虐殺開始と状況、ツチ・フツが記された身分証明書、武器の展示→虐殺を煽ったメディアの紹介(ラジオ千の丘、カングラ新聞など)→国際社会の介入、国連PKO−UNAMIRの説明→PKO司令部、司令官のロメオ・ダレルとニューヨーク国連本部との支援要請、部隊増強などのやり取り(拡大する危機、死者の急増に危機感を抱いた司令官のダレルはNYの国連PKO本部に部隊増強の支援を何度も要請するが、何故かいずれも却下され、事態はダレルの憂慮をはるかに超え最悪の事態へと展開する。この時、ダレルと国連本部、事務総長のガリとの間で交わされたFAX他の交信記録も展示されている)。さらに内戦、虐殺終結後のザイール(現コンゴ)への難民脱出、その後の和解のシンボルとしてのガチャチャ裁判(伝統的草の根裁判)の様子等々が壁に展示された写真などを使って説明されている。

 

前回あたりから甲斐先生の全体的解説の後、筆者が現場的目線で補足説明をするというスタイルになり、より分かりやすくなってきたのではないかと思うのだが・・・(?)。こういうのもなんだがこういったスタイルはこのスタディツアー以外ないと思う。だいたい一周して入り口に戻り、置かれている寄付箱に心付けを入れて終わりだ、おみやげショップで簡単な買い物をして記念館を後にした。


キガリ市内を抜けて右に曲がると、道は急こう配の曲がりくねった山道を登る。ルワンダの良さの一つに道路インフラの整備がある。80年代に来た時にはすでにこの山道は舗装されていた。急カーブの連続をのぞけば快適な道だ。高度を上げるにつれまわりの山々、緑の千の丘群が視野に入ってくる。どの丘も山もほとんどてっぺんまで耕され、畑の緑が広がっている。その分自然林は開墾、燃料確保などのためほとんど伐採れてしまった。その代わりにオーストラリアから持ってこられたという成長の速いユーカリを植えているのでユーカリの林があちこちに見える。

 

やがて大きなカーブに来ると、ついさっきまでいたキガリの街が見えてくる。年々、ハイスピードで遠くの丘に建つキガリの街、とくにそのビル群の景色は変化している。その様は、”アフリカン・バビロン”と呼ぶにふさわしく繁栄を空に向かって誇示している。 途中道路の左手にお墓を見る。これは1982年以降97年まで行われた中国による道路建設他で亡くなった中国人労働者たちが埋葬されているお墓だ。10人の中国人が埋葬されているらしく最近拡張されさらに立派になっている。今走っているこの道ももともとは中国の手によって建設された。

 

中国廟を過ぎ道が緩やかになると、日本の高速で言えばパーキングエリアのような場所に着く。山がちな街道では貴重な駐車、休憩スペースだ。多くの車、バスが休憩に停まっている。ちょっとしたお店があり、以前にはなかった焼き鳥や焼きトウモロコシ、焼きジャガイモなどを売る店からはうまそうな匂いが風に乗って流れてくる。トイレ休憩を兼ねてバスを降りる。焼き鳥(基本串刺しで日本のと変わらない、ただ肉は鳥ではなく牛だと思おう)を買ったり、ジャガイモ、トウモロコシを買ったりする学生もいた。焼きトウモロコシとイモが好きなのでオレも皮がパリパリに焼けたジャガイモとトウモロコシを買った。

 

15分ほどして出発すると、直ぐに市場があった。サムが運転手のアルフォンソに車を止めさせて降りて行き、枝に実のたくさんついた房状のバナナを買ってきた。日本ではお目にかかれないしみんな大喜びだった。小ぶりだけど味は甘酸っぱく、香りもよくおいしい。後ろの方にも回しながらみんなしばらくはバナナを味わっていた。峠上の急坂を降りてゆくと晴れていればゴリラが棲む3000〜4000m級のビルンガ火山群が見えてくるのだが、今回はあいにくうす雲がかかっていてかすかにしか見えなかった。


キガリを出て1時間以上走ったろうか、相変わらず山と斜面畑を見ながら走ると、ようやく平らで真っ直ぐな道になり、もう一息上り峠を越すとムサンゼの町に入る。ここもまた来るたびに、1年ごとに人も建物も増え一層町らしく拡張しているのを実感する。

 

町の通りに面したホテル(ラ・パルメ)にチェックインして、荷物を降ろし、しばらくしてゴリラ観光(トレッキング)の基地の村、キニギに向かった。どんどん高度を上げてゆくと標高も高くなり、空気が冷たくなる、火山灰地で肥沃なまわりはバナナ畑や、名産のジャガイモ畑が広がっている。村人たちは働き者だ、熔岩をどかしコツコツと土と畑を作り、そして長い年月をかけて作物を育ててきた。94年、このキニギ村でもジェノサイドが起き、多くの村人が殺された。小さいが死者のためのメモリアルもある。ずっとワレワレの正面に見えていたごつごつとした山、サビーニョ山(3634m、ルワンダ語で”歯”という意味)が目の前に迫ってくると、ゴリラ保護、観光のベースであるセンターに着く。

 

ここはレンジャー、保護官、ガイド、トラッカー(朝一で山に入り、ゴリラの居場所を特定して観光客を連れて登って来るレンジャーに伝える役)たちの基地だ。世界中からゴリラに会いに来る観光客は朝7時には、センターの前に集まり、それぞれ目指すゴリラ・グループの名前が書かれたボードの前に並んで同行するレンジャーのブリーフィングを受ける。「近づき過ぎない」「咳をかけない」「食べ物を与えない」等々、現在、十数のグループがそれぞれ違ったエリアに棲んでいて、グループ13、サビーニョ、スーサ、アマホロ・グループといった名前で呼ばれている。

 

コンゴ盆地に棲むローランド・ゴリラと違い、ルワンダ、コンゴ、ウガンダの3国にまたがるビルンガ火山群に棲むゴリラはマウンテン・ゴリラといわれ、内戦、密猟などによって一時その数が減ったが保護、監視活動により現在は700頭前後にまで回復している。ただ、そうはいっても数百という単位では種としての存続が依然危機的状況にある。一通りの説明、注意点を聴いた後、8時には山に向かって出発する。2000年の終わりのあたりまでは、500ドルだった入山料は、その後700ドルになり、なんと現在では1500ドル!という高値だ。一時的落ち込みはあるらしいが、観光局は強気の姿勢を崩してない。恥ずかしい話、金の無いオレは、自前でゴリラ観光をしたことがない。ほとんど、テレビ番組の撮影の仕事に同行という形だ。これまで”宇宙船地球号”(テレビ朝日系列、終了)、俳優の織田裕二さん、大沢たかおさん、そして”行ってQ”のイモトさんらのロケに同行している。

 

98年の”宇宙船地球号”の時は、まだコンゴで戦争が続いている時で、ロケの中止も考えられたが強行した。10人近い兵士の護衛を付けてゴリラの生態を撮りに土砂降りの雨の中、山に入った。かなり辛い歩きだった。運よく大きな群れに出会いカメラも回った、しかしその夜、前日打ち合わせで会ったばかりの国立公園のNO2が頭部に2発の銃弾をくらい何者かに射殺された。当然翌朝には荷物をまとめ即撤退、キガリめがけて車を飛ばした。夜中中雨が降り、何度も停電があり、見知らぬ人影が窓の外に映ったり何とも言えぬ不気味な夜を過ごした翌朝だったので、恐怖心もあってとにかく撤退は速かった。

 

いつもはセンターの裏に拡がる村や畑を散策し、村の悪ガキどもと会ったり(これがほんとにおもしろく、好きだ)、また幼稚園を訪問したりするのだが、今回は時間の関係でセンターの訪問だけにした。ホテルに戻り芝生の中庭でランチ、少し休んで元少年兵センターへ行く。

 

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