体感型アフリカツアー

(敬称略で申し訳ありません、さらに、これまで知己を得てきたとはいえ、本格的にお二人について取材、インタビューをしたわけでもないオレに、現時点でお二人の力強い生きざまについて書く力はありません、ただ、長い間アフリカを取材してきた者として紹介程度ならと思い書いたのが以下です)

 

ミルコリンのガーデンでランチをした後、一旦ホテル(ウムバノ)に戻ってウムチョムイーザ・スクールに向かった(虐殺ミュージアム訪問は翌日)。

 

 

*初めの星/トワリ・マリールイズ・カンベンガさん

 

ウムチョムイーザ・スクール(UMUCO MWIZA SCHOOL/意味はルワンダ語で”良き文化、良き振る舞い”だそうです)は2000年、ルワンダの首都キガリにザイール(現コンゴ民主共和国)生まれのマリールイズ・カンベンガさんと支援者の手によって設立された政府からも、宗教団体からも独立した私学校です。同時期に日本の福島では、支援者、マリールイズさんらの手によって”ルワンダの教育を考える会”が設立され活動を始めました。生徒は200人を超え、幼年から日本の小中学生にあたる年齢まで幅広く、また立場に関わらず、孤児やストリートチルドレンたちも受け入れています。とくにアフリカでは稀な図工、音楽などの情操教育にも力を入れたユニークで明るく笑顔の絶えない学校です。図書館も日本のNGOの協力で作られ、種類、冊数も増え、少しずつ充実しているようです。もう何回訪問したかは覚えていませんが、校長先生やスタッフ、そして生徒の皆さんからはいつも暖かく迎えてもらっています。訪問日、時間、季節などにより異なりますが、庭に出て一緒に遊んだり、教室で歌ったり、折り紙を作ったり、またスタツア参加者VS学園選抜!?とのバスケットの試合などもしたこともあります。結果は確かスタツア・チームが負けたと思います。訪問時間がちょうど昼時など、ラッキーなことに生徒の皆さんとともに数年前から始まった給食を共にしたこともあります。この給食を始めるにあったては設備費用の問題とか、父兄の説得理解等大変苦労をされたと聞いています(ボクもルイズさんご自身から給食調理用の大釜の捜索、手配を頼まれたことがあります。後日聞くところによるとどうやら、ケニヤのナイロビで手に入れたようです)。

 

ちょっと悲惨な時もありました、去年(2016)の年末、わかってはいたのですが、ちょうどクリスマスと重なり、生徒は実家に帰りほとんどいませんでした。その分、スタッフのみなさんには気を使っていただき、充実した時を過ごすことができました。もっともラッキーなのはマリールイズさんご自身がおられて、直接お話を聴けることだと思います。大変僭越な言い方ですが、とにかく日本語力が凄い。話が面白く分かりやすく、さらに説得力がある。時に日本のことわざなど巧みに交え、聴いている人を惹きつける。1994年、ルワンダ内戦、虐殺、コンゴ戦争を逃れ難民として来日。日本で生きてゆくだけでも簡単ではない中、大変なご苦労をされたのだと思います。ある時こんな話をされていた。(記憶を頼りにだいたいですが)「みなさん、日本のことわざで、『捨てる神あれば拾う神あり』というのがあります、わたしはこの言葉を実感し、本当に救われました」日本社会で自分の立場を作り、目的の実現に向けて生きてゆくのは並みの苦労ではなかったと思います。「わたしは何度もまわりから見放され、捨てられました。でも必ず誰かから、どこからか私を救う、助ける手が差し伸べられました。そして日本には『捨てる神あれば拾う神あり』という諺があることを知りました。素晴らしい言葉です。心から感謝しています・・・」たしかこういった話だと思う。これを日本人以上の日本語で、感情をこめて話されたら、誰でも引きずり込まれてしまう。見事に自分の人生、生きざまについて母国語以外の言葉によって表現できる天才的語り部ではないのかと思ってしまう。

 

いつの頃から彼女を知るようになったかの記憶は定かではありません。たぶん、神戸(トークイベント)か熊本(UNICEF子供の日 in KUMAMOTO)のイベントでお会いして、紹介されたのではないかと思います・・・。2012年に日本国籍を取得され、永遠リ(トワリ)マリールイズ(トワリのリの漢字が出てこないのでカタカナで表示します)になった彼女について、間違えるといけないので”ルワンダの教育を考える会”のホームページを参照に簡単に紹介してみたいと思います。

 

〜 1965年、ルワンダ人のお父さんの赴任先であるコンゴ民主共和国で生まれ(この年は確かその後独裁者と呼ばれ30年以上にわたってコンゴ/ザイールを支配してきたモブツ氏が、選挙で選ばれた時のリーダー、パトリス・ルムンバ氏を追放、殺害して実権を握った年であり、コンゴ激動の始まりの年でもあります)、成長して洋裁を学び、その後洋裁技師としてルワンダに転任、1993年には青年海外協力隊の現地カウンターパートナーとして来日、福島で研修を受けた。日本へと彼女の人生が大きく傾いた。だが研修が終わり帰国した2か月後の94年4月、未曾有の激動が彼女を待ち受けていた。ルワンダ内戦/虐殺の勃発だ。3か月後の7月、皮肉にも生まれ故郷のコンゴ(当時のザイール)に難民として避難、逃亡、難民キャンプ生活を送ることになった。困難な難民キャンプ生活の中、覚えた日本語を武器にキャンプで医療活動を行っていた日本のNGOの通訳として活躍。しかしここでまた運命は大きく日本へと回転する。再び運命の(拾う)神は彼女を拾い上げた。多くの関係者の尽力によって同年12月、再び来日を果たした。それから6年後の2000年、”ルワンダの教育を考える会”を立ち上げ、今日の活躍に至っている。2011年には福島で3・11震災にも遭遇している。波乱万丈の人生といっていい。信念と情熱が人間を作るのか、自分の周辺の困難に立ち向かうことによって鍛えられさらに自分を強くし、思いを確立してゆくのか・・・。彼女の場合、その両方によってさらなる高い所へと上って行ったように思う。

 

実は、彼女がコンゴ(当時のザイール)で難民キャンプ生活を送っていた94年8月以降、オレは映像(テレビ)ジャーナリストとして何度もコンゴとルワンダの国境沿いに連なる難民キャンプ地帯を取材していた。とくにカバーしたのはゴマ(GomA)の町から車で40分くらいにあるキブンバ難民キャンプだった。キブンバには約30万のフツ族難民たちが密集して暮らしていた。すぐ背後にはニイラゴンゴ活火山(3470m)が聳え、辺り一帯は熔岩の露出する不毛の火山台地だった。当然もっとも大変だったのが水、そして日々の煮炊きの燃料の確保だった。衛生状態も悪く、コレラの流行により5万人以上の難民たちが亡くなった。そうした苛酷な大地の上に難民キャンプはできていた。ゴマの町のすぐ側にはムグンガ、キブンバの北にはカヒンド、カタレなどさらに難民キャンプは続き100万を越す難民たちが劣悪な環境の下でひしめき合っていた。内戦に勝利したツチ族主体のRFP(ルワンダ愛国戦線、リーダーは現大統領ポール・カガメ氏)の報復を恐れ、先を争うようにしてルワンダを脱出し狭い台地に殺到した難民たち、かれらに適切な場所を選ぶ時間も余裕もなかった。とにかく空いている場所にメイクシフト/仮小屋を次々に建てていった。キャンプではだいたいそれぞれルワンダの同じ地区出身の人間たちが集まって暮らしていたという。たまたまオレが何度も足を運び取材をしたのは、ルワンダのビュンバ地区、ツンバ地区の人たちがかたまって暮らしていたエリアだというのを後から知った。はたしてマリールイズさんがどこのキャンプで暮らしていたのか聞いてないので分からないが、時期的には重なっている。もし、運命がいたずらをしてくれていたら、どこかで出会っていたかもしれない。マリールイズさんが通訳として働いていた日本の医療チーム(AMDA)とは、何度か接触していたし、知り合いもいた。ここは難民&キャンプについて書く場ではないが、キャンプはルワンダ虐殺、戦争の首謀犯たちの根城であり彼らがキャンプを支配し、国境を越えてルワンダへの反攻攻撃、帰還の軍事基地でもあった。ある日の朝、キャンプを彷徨い歩いている時オレはその日の朝に生まれたばかりの赤ん坊とお母さんに出会った。ショックでほとんど声の出ない母親に許しを得て彼に”TOKIO”という名前を付けさせてもらった。それから2年後の96年11月、キャンプはRPF(ルワンダ愛国戦線)とADFL(コンゴ・ザイール解放民主連合)主体の反フツ族、モブツ大統領打倒の勢力の攻撃によって壊滅。100万を超す難民たちが、3/2はルワンダ本国へ、残りの3/1、約40万はキャンプを支配していた過激派、強硬派らとともにルワンダ本国とは反対方向のコンゴのジャングル地帯へと逃亡し、苛酷な運命をたどった。当然、マリールイズさんは前者、無事本国帰還を果たしたのだと思う・・・(詳しくは拙著「アフリカン・ブラッドレアメタル/虐殺の道」にあります)。

 

 

*もう一つの星/斎藤照子さん

 

キガリの中心部から車で15分ほど走り少し斜面を下ると右手にウムチョ・ムイーザ学校がある。敷地に入ると全体的にゆるやかな丘を囲むようにして平屋の校舎、職員室などが立っている。訪ねるといつも、とくにマリールイザさんご本人がいないときは照子さんが迎えてくれる。小柄な身体全身にピンとしたバネのようなパワーを感じる。1938年生まれの照子さん(今年2017年、79歳)は、2012年、74歳の時にルワンダに移住した。音楽大学を卒業後、30代の頃からずっと途上国における平和と人間の平等について教育を中心に思索と活動を続けてきた。2002年からはルワンダの他、ネパール、ハイチなどにも支援活動を始めた、ボクと照子さんとの出会いは、今から6,7年前にさかのぼるだろうか。すでに知己を得ていたマリールイズさんから”おおつさん、今度ルワンダに移住する私の大切な友人がいるので是非会ってください”といわれて、確か東京駅の銀の鈴の前でお会いしたのが最初だと記憶している。とにかく元気な方だと思った。身体は小さいが全身エネルギーの塊のような感じを受けた。その翌年くらいに照子さんは言葉通りルワンダへと移住し、マリールイズさんの活動のお手伝いをしながら、同時に自身の目的である世界の平和とすべての人間の平等の実現を目指し、ウムチョ・ムイーザ学校をベースに今も精力的に活動を続けておられる。最近では、”アマホロ・プロジェクト(平和プロジェクト)”(アマホロとはルワンダ語で平和の意味)の一環として、「RAINBOW BIRD AND THE CHILDREN」という絵本を仲間たちと出版された。今回もボクを入れた16人の訪問に際していつものように変わらぬ笑顔であたたかく迎えてくれた。

 

先ほど、マリールイズさんのことを天才的語り部ではないのかと書いたが、照子さんもまた勝るとも劣らぬ語り部だ。マリールイズさんがやや抑え気味でロジカルに押してくる語り口なのに対し、照子さんのそれは、とにかく熱い、聞き手に向かってとにかく話したくて仕方ない、そんな感じさえ受けるくらい中身がほとばしり出る。照子さんの場合はさらに、ピアノ演奏を軸としたアーティストでもある、歌も唄う。

 

話しが若干それるが、小学生の頃の遠い昔、山梨のブドウ園を舞台に唱歌「この道:”この道はいつか来た道、ああ、そうだよ、お母様といつか来た道”」をテーマ曲として、盲目のバイオリニストの少年とオーストリアのウイーン少年合唱団の交流を描いた「いつか来た道」という映画があった。柄にもないが小学生なりに感動し、物語以上にブドウ畑を越えて広がる透明感あふれるバイオリンの音色と合唱団の歌声に、ちょっとうるっときたのを憶えている。

 

実は今回照子さんが、教室の中のボクラの前で平和を祈るアマホロ(AMAHORO)の歌をAMAZING GRACEの旋律に乗せて唄った時、震えるような透明感あふれる歌声に思わずうるっときて遠い昔に聞いたウイーン合唱団の「この道」を思い出してしまった。照子さんの歌声は、教室はもちろんのこと、きっとルワンダの千の丘さえも震わせていたに違いない。何度でも聴いてみたい、だが、80歳になろうとする斎藤照子という人の”問題?”の核心はもちろんそこにあるワケではない・・・。それは、”何故、70歳を過ぎてルワンダに移住したのか”、という凡人にとっての難問にある、マリールイズさんもそうだが、何故、星★というのか、それは二人が人生を決め切っているからだ。決めきった人、思い切った人だけ放つことのできる星のような輝きを持っているからだ。まだ、オレなりにその”何故・・・”についてしっかりと聞いていない(取材してない)。下手な理由を想像してここに書くのはただ紙面を汚すだけなので、あえて書かないことにする。その代わり、「RAINBOW BIRD AND THE CHILDREN」の最後にある紹介の文章を参考にしてここに載せさせていただく−−−。”・・・彼女の人生のテーマは違いを乗り超えること、国籍、人種、宗教、性、そして世代、年齢、教育(レベル)、仕事そしてその他すべての(差別的)違いを超えて、すべてを分かち合い、共に生きる”と書かれてある、(−−)内は筆者による補足です。

 

照子さん、そして教室での子供たちとの交流を終え、いくつかの教室を回った。図書館は確かに以前よりも充実していたように思う。陽射しの強い熱い午後だったけど職員室の前のルワンダ国旗が時折風にはためいていた。甲斐先生は今回も学校に対して寄付を行ったようだ、ちょっとの間消えていた。先生は行く先々で心付けを渡しておられた(個人ではなく組織、団体に対して)。ツアー会社のU氏もまたそれにならっていた。別れ際、たくさんの子供たちが庭に出てきて参加者の学生たちと絡まるようにして遊んでいた。少し時間があったので甲斐先生の提案で、ダウンタウン(中心部)のナクマット・スーパーマーケットにショッピングに立ち寄った。学生たちはまずはおみやげの確保だ。向かったのはルワンダ名産のコーヒー、紅茶が並ぶ棚だ。たくさんの種類があり、またはじめてでは何が良いのか分からない。オレは以前から店員に勧められていた種類のコーヒーをみんなに教えた。オレもお世話になった方々へと、8個くらいコーヒーを買った。内、1個は自分ようだ。といってもコーヒーメーカー?なんて洒落た物はないので、お茶を淹れるときと同じようにただ茶こしに入れて注いで飲むだけだけど・・・。それでも十分に旨い。自分的にはさっさとコーヒー、仕事用の雑誌を買って、レジを出たところにあるカフェでルワンダ・コーヒーを飲んでみんなを待っていた。スーパーを出るころには辺りは薄暮に包まれていた、さまざまな赤いランプとヘッドライトが交錯し渋滞が始まった夕暮れのキガリの街をホテルに戻った。

 

蛇足になるが、この項の終わりにあたって、「信念」と「情熱」について簡単に触れておく。お二人の生きる姿を見ていてもこの二つがお二人を思いの実現を支え、突き動かしているのは間違いない。一般的には次のように言えるのかもしれない。まず「知る/発見」があって、何かしようという「動機/モチベーション」が生まれ(この第1次展開は大事)、実現への「心/信念」が生まれ(苦しみの中で創られる)、それを「情熱/パワー」が推進する。個人的ちっちゃな仮説だが、「心/信念」を何によって”生み””支える”のか、それは個々人によって違ってくると思う。この確立の成否によって、おそらく、思いの実現、完成が成功するか否かも決まる…。その時はじめて神が姿を現すのかもしれないが、それはまた別の話しだ。オレの場合、アフリカ紛争の持つ世界的意味と重要性を”発見”し、知った。それをあまり知る機会のない人たちに何とか伝えたい(動機/モチベーション)…そこまではかろうじてたどり着いた。しかしその後、つまり「実現/完成」への次となるとゼロ+レベルではないかと思わず自虐してしまう。「心/信念」があれば「情熱?」なんていうのは自然についてくる。

 

第3回(虐殺ミュージアム、移動、元少年兵リハビリセンター・・・)へ続く・・・

 

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