体感型アフリカツアー

昔、ハリウッド映画でマリリン・モンロー主演の「帰らざる河」というのがあった

 ….called the River of No Return

 sometimes it`s peaceful and sometimes wild and free

 Love is the traveler on the River of No Return

 the River of No Return swept on forever to be lost in the stormy sea

(名曲です、一度聴いてみてください)

 

メロドラマ風西部劇の主題歌と、2017年のルワンダ・スタディツアーのタイトルを重ね合わせるセンスはどうかと思うが、今年のルワンダ・スタツアは、”帰らざるルワンダ・スタディツアー”といわせるほど、なにかいつもとはちがっていた。

 

16人もいたからか・・・元少年兵リハビリセンターとムランビ虐殺サイト(どちらもheavyだ)を結びつけたからか・・・17歳の女子高生が参加してくれたからなのか・・・いつになく長距離を走ったからなのか・・・人間の体験に根差した心の在り様というのは微妙で複雑だ、ただ歌詞にもあるようにそれはどこか、自由でそしてとても熱かったように思う。

 

たとえ荒れ狂っていようとすべての河は海という終着点がある。たとえ永遠に失われようと海がすべてを受け入れてくれる。2017年、”帰らざるルワンダ・スタディツアー”の終着点は一体何処なのか、何なのか。たぶん、思い出として、人生の1ページとして一人一人の心のどこかで受け入れられ、時には忘れ去られ、そして、”帰らざる河”の流れがそうであったように最後は、それぞれの人生の荒海stormy seaの中に永遠に消えてゆく、絶対に二度と起こらない、二度と帰らないツアー、それが2017年の16(sixteen)-Journey/Tour of No Return だったのかもしれない・・・。

 

そして、今回初めて思ったことがある、二つの虐殺サイト<タラマ><ムランビ>を歩くこと、いや、ルワンダを歩くこと自体、それは”巡礼の旅”だということ、巡礼:宗教上の聖地を歩くとある、遠いこと、体力、気力、最低限の金も使わなければならない、それが巡礼だ。折り重なるように波打つ千の丘、その谷合(たにあい)で起きた惨劇、無数の生と死の格闘が醸し出すオーラ、”千の丘thousand hills、千の問題thousand problems、そして千の解決と和解thousand solutions and reconciliations”(ガイドで友人のサムの言葉)、まちがいなくそこは”聖地”だった。

 

 

*今回のツアーのだいたいのルート、訪問先:

首都キガリ 〜 タラマ教会 〜 虐殺ミュージアム 〜 ウムチョミザ学校 〜 ルヘンゲリ(現ムサンゼ) 〜 キニギ村/ゴリラ観光基地 〜 元少年兵士リハビリセンター 〜 コンゴ国境 〜 キブ湖 〜 ナイル・コンゴ郡(ルワンダ最西部) 〜 キブエ/モリア・リゾート(キブ湖) 〜 ギタラマ(現ムハンガ)ドローン企業 〜 ブタレ(現フイェ) 〜 ムランビ虐殺記念館 〜 キゲメ難民キャンプ 〜 ブタレ 〜 アベガアガホゾ(戦争未亡人リハビリセンター)、キガリ//計6泊

※これらの場所のいくつかは、訪問にあたって事前の交渉と許可が必要です、個人的訪問は難しい場所もあり、相応のドネーション(寄付)も必要かと。


スタディ・ツアーでルワンダの首都キガリを訪れるときは、ここ最近はほぼ毎回、カタール航空を使っている。以前はエミレーツ航空、ケニヤ航空などでケニヤのナイロビ経由とかもあったが、カタール航空がドーハ→エンテべ(ウガンダ)→キガリと乗り入れるようになってからはほぼこのルートを使っている。ところが今年6月ころサウジアラビアとその支持国対カタールの間で、政治的トラブルが起きて以来、カタール航空はエンテべ止まりになってしまい、キガリにはルワンダエアーで飛ぶことになり、そのため、エンテべで約6時間の待ち時間があり、キガリに着いたのは夜の9時過ぎになってしまった。いくら若いとはいえみんなも相当消耗していたに違いない。オレは気力しか残っていなかったかもしれない。しかし、いざ着いて見ると、目的地、憧れていたアフリカのルワンダということもあり、思った以上にみな元気だった。普通なら午後2時ころには着き、3時過ぎにはホテルでゆっくりできるが、今回はすでにあたりは暗く夜のとばりが降りていた。ただ、着いたばかりの飛行機のエンジン音を背に歩く夜のエアポートもやーっと着いたという気分の高まりもありテンションは自然と上がった。

 

手続きを済ませ外に出ると、サム(ガイド&コーディネーター)が待っていた。4月にも会ったがすぐに先にハグされ、向こうのが背が高いのでつい身体がソル感じになる。これは避けたかったがやっぱり先にハグされ背が伸びてしまった。ちょっと悔しいので、握手の時は思い切って握り返してやった。アフリカの男は握手とかハグで直ぐに相手の強さや調子を計ってくる、握手はぜんぜん負けてなかったけど(笑)。オレを入れて16人と人数が多いので、荷物車が別に用意されていた。みんなを乗せて初めてキガリの街に走り出した。夜の千の丘にまたたく街の灯は、思い切り美しくロマンチックにボクラを迎えてくれた。来るたびに丘を飾る街の灯が多くなっている。以前はさびしささえ感じたものだ。その日は11時近くチェックイン(ウムバノ・ホテル)した後早々に寝た。翌朝、皆元気に目覚めたようだ、初めてのアフリカの朝だ。いつもキガリの朝は清々しい。果物、コーヒー〜オムレツ、ホテル自家製のパン、どれをとっても食事は美味しく、ついつい食べ過ぎてしまうほどだ。スタツアでキガリの定宿にしているウムバノ・ホテルは建てられてかなりの年月が経ち、たしかに造りは古い。でもなんといっても庭にあるプールを囲むように造られたガーデンが素晴らしい。とくに朝の光を受けた緑の庭は解放感に満ち充実した一日を約束してくれているかのようだ。


朝食の後、長旅で疲れているので遅めに出発し、タラマ教会に向かった。

 

オレが初めてタラマを取材したのは1995年だった。ルワンダが安定し成長を遂げるにつれて教会のあり様も変わってきた。外国からの訪問者を意識し、ここで多くのツチ族が殺されたのだということをアピールするため、年々、整備されメモリアル・サイト化しつつある。ここで虐殺から1年後の取材をもとにタラマ教会について簡単に触れておきたい(内戦/虐殺が終わった94年9月にもルワンダを訪ねたがその時はタラマ教会は訪ねてない)。当然教会までの道も激変している。今は完全舗装の道で30分もあれば到着する。以前は凸凹の悪路で途中の検問も含め下手すると教会到着まで一時間以上かかった。95年7月、その日は厚く雲が垂れ込め、ユーカリの木々が風にざわめいていた。”この道を避難者たちは教会を目指し急いだんだな・・・”、男たち、女たちのひた走る息遣いがユーカリのざわめきと黒雲の流れにのってふと聞こえてきそうな錯覚に陥った。やがてニャバロンゴ川を渡った。橋を守る検問の男が提げた銃が不安を誘った。紛争地取材時、いくつもの検問(ロードブロック)で緊張と怖い思いをした。一番怖いもの、それは兵士の目だ、100m向こうに検問が見えてくると、緊張と恐怖で脳幹がひきつる。細い道に入り赤茶けた道をしばらく走るとユーカリの林の中に古びた小さな教会が見えた。5000人が殺されたというタラマ教会だ。さび付いた鉄の門の前で門番が扉を開ける。緩い坂道を歩くと、目の前の台の上に積まれた無数の骸骨、頭を割られた頭蓋がこっちを見ていた。台の下には大腿骨や足、腕の骨が無雑作に放り込まれていた。本当の恐怖、異空間は狭い教会の入り口を入った瞬間、いきなり目の前にあった。むっとくる異臭、人間の生と死の価値、尊さとはいったいなんだろう。死者を丁重に弔いその魂を鎮魂する、そんなことが何となく思われる。その時オレの目の前に広がった死、いや殺害は一切のそうした観念、思いを打ち砕く、人間の尊厳も価値も微塵もない、人間の死、それは「ゴミ」だった。目の前の人間の死は散らかり汚いゴミ以下だった。凄まじい殺しの跡形、人間の死をゴミに突き落す、それが殺し屋たち/インテラハムウェ(フツ族殺人集団)の、対ツチ戦法だったと言い切っていい。殺し屋たちにとってツチ、そしてツチをかばい、共存しようとするフツもまた人ではなかった。だから人間ではなくゴミとして処理できたのだ。ここに死してなお鎮魂と復活を認めないジェノサイド 〜 虐殺/敵対民族、グループを計画的組織的に抹殺する 〜 の恐ろしい意味がある。

 

カメラを回し一歩進むたびに足元が沈む。微風に乗って乾いた死臭が鼻を突く。ポディアム(説教台)の上に無雑作に置かれた頭蓋骨がこっちを見ている。蜘蛛の巣が鼻から目の穴にかけて張られている。映画の一シーンのような錯覚に陥る。ありとあらゆる生きてた人間たちの痕跡/思いでが目の前、足の下に拡がっている。避けながらオレはそれを踏んづけている。メガネ、数珠(ロザリオ)、写真、IDカード、ノート、教科書、ネックレス、薬のシート、杖、そしてズボン、シャツ、カップ・・・、オレは倒れないようにカメラを回し続けた。すべてがレンズに集中しているオレにとって、辛さはあったが恐怖はなかった。突然、後ろの方で叫び声が起きた、後からやって来た国連のアメリカ人女性がパニックに陥り我を失った。”Never,never,never!!”彼女はヒステリックに叫び泣いていた、一緒に来ていたルワンダ人スタッフが彼女をなだめ、抱えるようにして出て行った。

 

今回もまた、ガイドの説明を聞きながら回っていて一つだけ何度見てもリアルで衝撃的なものに出会った。殺された犠牲者たちが着ていた無数の衣類だ。血に染まり汚れた衣類は無言だが、おそらく今では最も死者たちに近い証言者(物)ではないのか。教会の本堂のすぐ左手には牧師たちの着替えの部屋があり聖書や他の書物が残されていた。教会の裏手はゆるやかな傾斜になっていてその向こうにキッチンと小さな日曜学校の建物があった。確かちょうどこの斜面で、数人の生存者の内の一人の女性にインタビューをしたと思う。何処からともなく現れた彼女は、ほつれた髪をかき揚げながら終始薄ら笑いを浮かべていた。忘れられないのは痩せた彼女の薄い胸にその時もなお下がる十字架だった。地獄の惨劇の後もなお神を信じているのか・・・ ”毎晩夢を見ますか”というオレの質問に”毎晩毎晩見ますよ”と答えた彼女はそれでもまだ薄ら笑いを浮かべていた。おそらくショックが彼女を違う人間にしてしまったのだ。あれから20余年、成長と発展のこの国でいま彼女がどこでどのように生きているのか、知るすべもない。

 

この項の終わりにタラマの殺しについて、拙著「アフリカン・ブラッド・レアメタル」から引用し補足しておく。

 

“・・・教会のあるブゲセラは60年代初めに起きたフツ族による迫害、殺戮を逃れたツチ族が作った拠点の一つだった・・・当然、教会はインテラハムウェたちの攻撃目標とされた…人権団体の「アフリカン・ライツ」によればフツ族過激派権力中枢はすでにそうしたツチ族の強力な拠点にあえてフツ族を移住させ、インテラハムウェをやしなっていたという(P67)”、”…教会の周囲にも殺し屋たちが待ち構え、逃げようとするツチたちを殺していった。教会の囲みを突破し森の中を逃げた者の多くも近くを流れるニャバロンゴ河の流れを前に進退がきわまった。すでに両岸には殺し屋たちが待ち構えていた。かれらは二つの選択を迫った。河に飛び込み溺れ死ぬか、銃で撃たれて死ぬか。ナタによる惨い死を避けたい希望と絶望の中で、ほとんどの人間はジャンプし、河に飛び込んだ。母親たちの多くは幼子を背中にくくりつけたまま、死が確実にやって来るのを知りながら父親たちは最後の愛の証として子供たちを河に投げ込んだ・・・ルワンダを流れる川はどれも最後は大湖ビクトリア湖に流れ込む。最終的に湖に流れ着いた死体は5万を越えたと言われている(P68)”


−−3つのワケ

 

(1)スタディツアーで一番大切なもの

 

それは成果でも、どこを訪ねるかでもない、安全(security)だ。いつも同行していただく甲斐教授(拓殖大学、国際政治/2005年のタンザニア以来10数回アフリカ・ツアーに同行していただいている、もちろん今年も同行していただいた)とのそれは最大の了解、確認事項だ。これを超えるプライオリティはない、成果はその次だ。自分の戦場、危険地帯取材体験の中から導き出した答えだ。いつも甲斐教授と話している、参加者全員無事成田で笑顔で会い、お別れできること、それ以外にはないね、と。この安全を実現するには相応の体験と現地ネットワークが必要だ。ここは安全(security)について論じる場ではないので、最も大切な一点だけ触れておく。一番やってはいけないこと−−−それは長年、何回も来ているからどってことないないという”慣れ”の気持ちだ。即それは慢心と驕りに繋がる。これ以上のやってはいけないこと=タブーはない。アフリカ、中東、アジアの人たちは、日本人が彼らを見る100倍、あるいはそれ以上われわれ日本人を観察している。慣れた、驕った態度は直ぐに見破られる。言葉を換えればそれは隙と弱点を見破られることだ。強盗から誘拐、さらには襲撃まで、世界は常にリング外バトル−場外乱闘場−といっていい。自分の恥をさすことになるが、そうした態度、気持ちでいたオレは昔アフリカのある場所で殺されかけた。幸い命は助かったが重傷を負った。残念ながら、島国育ち 〜 直接接する国境もない、敵対的異民族もいない、共通の言語も一つ、文化もほぼ同じ、つまりワタシとアナタ、キミとボク(の世界)で成り立ち、深刻に競合するカレラ、ヤツラという第三者がいないfictitiousかりそめのリング 〜 のわれわれにリング外バトルを戦う力はほとんどない。それを感じ、力を付けるためにオレもみんなも”世界(ルワンダ/アフリカ)”に飛び出たっていうこと、かな。

 

 

(2)ルワンダのワケ

 

他のアフリカのツアー候補地と比べて格段に治安が良い。以前訪ねたケニヤもタンザニアもルワンダと比べると治安状況はよくない、ケニヤはソマリア系武装テログループによる襲撃の懸念、タンザニアも実は強盗など治安面は決して良いとは言えない。次に、国際問題に関心のある若い学生たちにアフリカの中でもルワンダの知名度は抜群に高く、訪ねたい国としてかなり注目されている。イギリスの若者たちの訪ねたい国ランキングでルワンダはトップだそうだ。それは、そこに豊富な学ぶべきテーマ、アジェンダが存在するからだ。虐殺/内戦の苦難を乗り越え、新しい国造りを目指している国として世界はアフリカの中でもとくにルワンダに注目している。(元)少年兵、戦争未亡人、難民問題、さらに現在のITビジネス、先進的ドローンの活用、環境問題への取り組み、奇跡の復活、経済成長といったポジティブな面に至るまで、学ぶべきテーマ、また訪ねるべき場所は多い。結局13回のアフリカ・スタディツアーの内、なんと8回か9回はルワンダだ。

 

 

(3)オレの(個人的)ワケ → 何故、アフリカ・スタツアなのか

 

<A>

国際とか、来る日も来る日もグローバルとか言っている割にはほとんど世界を伝えない日本の島国メディア。とくにアフリカはひどい、バラエティとかカルチャーの形ではいくらか入って来るが”ニュース”としてのアフリカはほとんど入ってこない。この半世紀近くアフリカを往復しているが、いつまで経っても日本人の存在も少ない、いないに等しい。

 

だが、現実にアフリカを歩き、カバー(取材)する時、日本のメディアが伝えない、知らないだけで実は、世界のHeadline、Hotspotであり、人間と時代の問題、課題が詰まったそこは世界の最前線/Frontlineだった。オレはアフリカを通じて”世界”という”リアル”を日本に持ってきたかった(この国の雰囲気からして余計なお世話だというのは知ってます)。その手段としてのジャーナリズム(フリーランス)だった。アフリカ・スタツアもまた、形を変えた一つのそうした表現なのかもしれない。とくに日本で国際問題を学ぶ若者をリアルな現場に連れて行き、本物を感じてもらいたかった。難民キャンプ、(元)少年兵、虐殺サイト、戦争未亡人、さらにコンゴ国境から時に外務大臣面会、地元テレビ局から、時に在キガリ、中国大使館に至るまでオレがみなさんを案内する(僭越な物言いですが)場所と問題、それは取材レベルといっていい。それはほとんどオレにしかできない仕事(使命)だと(誰も言ってくれないので)一人で思っている(もちろん一人で実現できているなんて少しも思ってない/甲斐先生、そしてすべてを承知でツアーを催行させてくれているフレックス・インターナショナルの乙田社長、お二人への感謝については改めて書かせていただく)。つまりアフリカ・スタツアは形を変えたオレにとってのマイ・(アフリカ)ジャーナリズムなのかもしれない。

 

 

<B>

リアル×感性 → 40万円払っても、たとえ1分でも”リアル”を”感じる”ために。

 

何故、(元)少年兵たちに逢いに行くのか、何故、戦争未亡人たちに逢いに行くのか、何度か触れているが、島国という制約上、さらにかつての戦争への反省と戦後の平和教育などの影響も有ってか、国際問題、国際政治を考えるとき、どうしても概念、観念が先行しがちでリアリズムの視点に欠けるといつも思ってきた。たとえば”平和構築”、必要な学びだが、世界と紛争のリアルを知らずして、体感することなくして、何故そう簡単に平和構築という言葉が語られ、実現できると思うのか。紛争のリアルを知らずに観念が先行しているからではないのか。折角なので一つだけお話ししておく。アフリカ紛争の主役は誰か−−−それはゲリラguelliraとミリシアmilitia(紛争地域の加害者でありまた被害者でもある)だ。でも平和構築論?の中ではちっとも彼らの存在、役割について触れられない。”彼らは誰なのか””何故生まれるのか”、ゲリラとは反政府武装組織であり、政府に敵対する武装勢力です。ミリシアは民兵と言われていますが、準軍隊(para-military)のことです。つまり政府軍とコラボして反政府ゲリラと戦う政府軍側の下部武装組織のことです。だからたとえば、少年兵にもゲリラ兵とミリシア兵の両サイドがいるということです。因みにツアー参加の皆さんが会ったルワンダに帰還した少年兵たちのほとんどはFDLR(1990年代半ばルワンダ虐殺/内戦の終結後、難民としてコンゴ:当時のザイールに逃げたフツ族過激派、元ルワンダ政府軍兵士を中心に2000年に結成された反ルワンダ現政権打倒を目的とした武装組織)に所属していました。FDLRは今なお国境を越えてルワンダ現政権の打倒を目指す反政府武装組織なので彼ら(元少年兵士)はゲリラ兵です。時にコンゴ政府軍と組み、またある時は戦うこともあります(本によってはFDLRミリシアと書いてある場合もありますが)−−−そしてこのツアーでみなさんが会い、触れるのは、決して日本の平和構築の授業では出てこない、イメージもできない本物の”ゲリラ/少年兵士”です。その出会いは”知る”レベルではありません、もっと深く、そしてリアルです。何故なら全身で”感じる”からです。冒頭にかいた1分間(ほんとうは1時間以上でしたが)の出会い、たとえ100回の講義でもこの1分間の出会い、触れ合い(リアル)を超えることはできません。言葉を換えれば参加したみなさんは本物の”戦争と平和”と出会い、直面しているということです。彼らこそが、みなさんが耳にする今のアフリカの戦争の、紛争のリアルを感じることのできる生/本物の存在です。若者の言葉で言えば”ガチ”です。それは観念でも概念でもありません、リアルです。幸いにも今の日本には無いこの本物を求めてみなさんは40万円を払い、往復25000Kmの長くてつらい旅をするのです。こうした機会と若者が増えない限り、残念ながら是非は別として最近とくに耳にする”グローバリズム”はこの国には来ないと思います。世界を訪ね、謙虚に学んでこそ、新しい日本は来るのではないでしょうか。そうした力/人材がいつかもしかしてこのスタツア参加者の中から生まれないとも限らない、そんな思いをどこかに宿して、腰が痛い、眠れないとこぼしながら往復2万5000kmを飛んでます。

 

 

<何故、スタツア>なのか、3つのワケ+<A>,<B>と個人的思いや理屈(大津司郎個人の考え方です)を長々と、また偉そうに書いてしまいました。これがボク個人にとってのアフリカ/ルワンダ・スタディツアーかもしれません。この項の最後ですがこうしたことすべても、(1)の”安全(現場security)”があってはじめて実現し、意味を持ちます。

 

タラマ教会から帰り、サムの提案で映画「ホテル・ルワンダ」にも出てきたミルコリン・ホテルでランチ、数年前の改装以降、とても洒落たホテルに変わりました。プールサイドにはサファリ風のカフェ&バーができ、昼から外国人観光客が酒を飲んでます。20余年前ここが内戦と虐殺の修羅場になったなんて想像すらできません。戦いが終わって2か月後の94年9月、取材で泊まった時には、かろうじて営業を再開した直後で、確かに部屋はあり、泊まれましたが、床にベッドのマットだけを敷き寝ました。毛布はなかった記憶があります。そこからコンゴ(当時のザイール)に向かいました・・・、今回は何せ16人の大人数です、テーブルを何個も合わせやっとみんなが座れました。食事もおいしく、皆楽しそうにランチを楽しんでいました。午後は市内にある虐殺ミュージアムとマリルイズさんと斎藤照子(イズ—バ照子)さんがおられるウムチョミザ・スクールを訪ねます。

 

●第2回へと続く・・・

 

第2回