第17回:ホディhodi?(スワヒリ語で「お邪魔してもよいですか?」)
ボクラは一軒の小さな小屋(家)に入った。その家は完全なテントではなかった。小さな小屋のような感じがした。〝こんにちわ〟と言って狭い入口を入るとそこはキッチンのような場所だった。家の主(あるじ)の年配の女性(Tさん) が笑顔で迎えてくれた。何故かとても生き生きとしたいい顔をしている。1973年にブルンジを逃げいくつかの場所を歩き、今はこのタンザニアのニャルグス・キャンプで暮らしているという。夫をはじめ3人の家族を戦乱で失くし、今は姪っ子他全部で6人で暮らしているという。
テントや小屋--といってもそれ が〝家〟であり〝家庭〟である、今生きている人生のすべてである--の中はどれもそれほど変わりはないと思う。まず本当に狭い、そこに台所、寝室、そして 子供たちの部屋など、ギリギリに分割して何とか生活している。
ボクは取材の時必ずそうした狭い室内を撮らせてもらうが、今回は主役はツアーに参加した若い人たちだ。どうしてもアフリカの〝ふつーの〟難民たちの家=家庭をたとえほんのわずかな時間でも垣間見てもらいたかった。もしこれから何かの機会で難民を語る時、こうして実際にキャンプを見て歩き、さらに家の中まで入ったという実体験は何者にも増して貴重な力になると思うからだ。余計なことかもしれないが、ボクは〝中に入って・・・〟あたかも自分の家のような感覚でみんなに声をかける。その時何故かKだけは一人だけ中に入ろうとせず、表で子供たちと戯れていた。あえて聞かなかったが何となく気持ちは分かるような気もした。それはKの特別のやさしから来ているのかもしれない(勝手な想像です)。結局、狭い家は3つに仕切られていて、入った直ぐの真ん中が台所、そしてその両側がベッドルーム(寝室)になっていた。そうする以上に何もできるわけがない。子供用の寝室には木の枝で組んだようなベッドがあり、数枚の毛布が敷かれているだけだった。申し訳なかったが、Tさんの寝室も見せていただいた、こちらの方は何処かで手に入れたのだろうか、大きなマットレスが一枚敷いてありその上に毛布があった。しかしどんなに手を加えようが所詮薄っぺらいにわか作りの〝家〟 だ。朝晩の冷え込み、そして雨期の豪雨を凌ぎようもない。つい日本の東北震災後建てられた仮設住宅と比較してしまう。どちらも苛酷なことに変わりない。
2016年2月に催行した「現場へ行こう」タンザニア・スタディツアーに関する大津氏の手記。このツアーでは、大津氏独自の現地コネクションと強い安全への意識のもとブルンジから多くの難民が押し寄せるニャルグス難民キャンプを訪問しました。アフリカに30年以上通い続ける大津氏が、ツアーの様子や裏話、旅に関する教訓などを記しています。そこには参加されるお客様への思いも・・・。(連載/全19回)。