体感型アフリカツアー

 

 

 

2020年8月16日(日)に開催されました、【“旅”と“取材”2つのレンズから見えてきた人間と世界 ―PIA/Perhaps I Arrive:僕たちはついにたどり着いた―】についての、フレックススタッフによるレポートです!

 

過去イベントの詳細はこちら⇒

https://genbaheikouevent0816.peatix.com/view

 

 

会場に東京タワー近く神谷町のカフェバーBlueBaobab Africa(ブルーバオバブアフリカ)

お借りいたしました!

 

住所:東京都港区麻布台2丁目2-12 三貴ビル2階 

アクセス:https://tomosu-lab.com/access-2/

 

 

▶PIA: Perhaps I arrive

 

本題に入る前に、皆さんが気になっていらっしゃるであろうサブタイトル「PIA/Perhaps
I Arrive:僕たちはついにたどり着いた」についてお話しします。

PIA とは本来Pakistan International Airlines の略です。

 

当時、成田-マニラ-バンコク-カラチ-ドバイ-ナイロビの経由便が週4 回出ていた
そうですが、発着時刻に遅れが出たり飛ばないこともよくあり、そこで大津さんを含む若者
たちがPIA をもじって「多分着くんじゃないの Perhaps I Arrive」と言っていたのだそう
です。

当時のPIA は常に満席で、50~60 人の日本人だけのツアーがあるくらい、日本人が世界
へ旅に出ていたといいます。

 

「今は”globalism”,”globalization”というが、そんな言葉がなくても当時はもっと外
に出ていた。若者の行動パターンを制約する同調圧力てきなものがなくて自由だったのか
もしれない。(大津さん)」

 

本編は2 部構成でお届けしました。

第1 部は 70-80 年代の旅
第2部は アフリカ/取材・コーディネーターの裏側

 

 

 

▶プロローグ

今回のイベントのゲストであるジャーナリストの大津司朗さんとドキュメンタリーディ
レクターの高木つづみさんは、2007 年ドキュメンタリー番組の制作を手掛けるプロダクシ
ョンで出会って以来、13 年もの長い付き合いになります。

 

イベントがスタートしてさっそく、大津さんのアフロ時代のパスポートの顔写真が印刷されたお手製のT シャツを紹介する高木さんとそれに照れながらつっこむ大津さん。

 

 

ゲストの方の人間性や関係性なども感じ取っていただけるアットホームな雰囲気が当社のオンラインイベントの魅力のひとつと自負しております!

 

 

▶第一部『70-80 年代の旅』

 

1960 年の小田実さん著『何でも見てやろう』をきっかけに日本人がアフリカへでていく
ようになります。大津さんもその世情に乗っかった一人でした。

 

ブラジルへ移住する人が多い中、あまり注目されていなかったアフリカに目を向けた大津さんは、

70 年に大学を1 年間休学してアフリカへ渡ります。
飛行機や三頭列車、移民船などをいくつも乗り継ぎ、トータルで5,6 万、1 カ月もの時間
をかけてアフリカへ到達しました。

 

「当時のインドはアフリカまで移民をするくらいの貧しさがあった。」

 

移民船では、“船底クラス”という船底の方に移民たちが居住する空間があり、蚕棚のよ
うなもので寝ていました。水平落雷ですごい揺れを伴う地獄船と呼ばれる船の中で、2 週間
3 食すべて同じカレーを食べたと話します。
手持ち10 万で旅にでた大津さんの苦労はアフリカについてからも続きます。移動はヒッ
チハイクと路線バス、基本食パンにはちみつをつけて食べる生活でした。

 

「西のイクバル 東の楽宮」

ナイロビのイクバルホテル、バンコクの楽宮ホテル。
当時ネット環境のない中で、宿は若者たちの交流および情報交換の場として活躍しました。

 

 

写真:“レジェンドバッグ”を手に取る大津司郎さん

 

▶第二部『アフリカ/取材・コーディネーターの裏側』

 

高木さんがアフリカでの取材をする際に大津さんから教えられた3 つの心構えがありま
す。

「humble 偉ぶらない」
「sympathy 相手に対する共感」
「straight 何がしたいのかはっきり言う」

「敵対する複雑な人間関係のなかでは、相手にリスペクトを本心から持って腰を低くし
ていかないと生き残れない。受け入れられた、認められたと思うのは錯覚。所詮よそ者はよ
そ者ということを忘れない。最低限の条件をクリアできたら、あとはストレートに何をした
いかを伝えるのみ。」

 

日本とアフリカを含む海外でのロケの違いは、「危険が伴うかどうか」ということだと2人は言います。日本のロケでは必要な画を余すことなく撮ってくることのみに注力すればいいが、アフリカでのロケは危険と隣り合わせ。普段穏やかな大津さんが人が変わるのがそういった危険を察知した瞬間なのだそうです。

 

「みんなで成田に戻ってきて、やっと安心ができる」

これは大津さんが当イベントで何度か口にした言葉ですが、危険に対して敏感でなくてはならないという徹底した姿勢から、どれほどシビアな空気感であるのかが伝わってきます。

 

学生時代から何度もアフリカの地に降り立ちあらゆる危険を目の当たりにしている大津さんだからこそ、その危機察知能力は信頼を寄せるところだと高木さんは言います。
イベント内では大津さんと高木さんが現地で繋がりのあるアシスタントのサムさんと中継で電話をしました。

「情報共有をすること、日本に帰ってきてからも定期的にコンタクトをとり関係性を作っていくことで、毎回同じ方に仕事を頼むことができる。」不慣れな地で撮影を行ううえで、このように関係性を築き安心材料を固めていくことは大事だといいます。

 

本イベントでは、高木さんがセレンゲティで結婚式を行ったときの映像が流れ、実際に会場ではタンザニアのウェディングドレスと帽子を身に着けた高木さんが再登場しました!

 

牧師役をした大津さんや、現地の村人たちの踊りや歌などのレアな映像も公開され、笑いあ
りの温かい雰囲気でイベントは幕を閉じました。

 

 

 

▶さいごに

「旅の在り方」「旅における人との繋がり」は当時に比べてどう変わってきているのでしょうか。

 

若者たちは旅への純粋な憧れから、何週間もかけて決して快適とはいいがたい環境を耐え抜き、その先に辿り着きたい一心で大陸を越えました。当時の彼らをそこまで駆り立てたものはなんだったのでしょうか。それは世の中に充満していた単なる海外旅行(移住)ブームといえる風潮だけではなかったはずです。

 

今やあらゆる情報であふれかえった世界で、従来の旅に不可欠だった人との繋がりは、いつしか片手で収まる電子機器に姿を変えました。便利さや気軽さと引き換えに失ったものを今一度見返してみてはいかがでしょうか。

 

私は当時の彼らの旅にロマンスを感じます。