体感型アフリカツアー

第3回:キゴマへ

 

翌日のキゴマ行きのフライトは何と早朝6時発、4時半にはホテルを出た。チェックインを済ませ、まだ暗い中、これからの旅への不安と期待を載せた小さな飛行機はダールの町を離陸した。全体に曇りの中、かなりの揺れもあったが無事キゴマ着。外は雨だった。たっぷりとタンガニーカ湖の水分を含んだ空気は湿った風となってほほをなぜた。ああまた旅が始まるんだ・・・そんな思いに一瞬とらわれた。すでに前日に車でキゴマ入りしていたフィリップの車で、いよいよ今日の宿泊地、ツアーのベースになるカスルのホテルに向う予定だったが、なにせ朝6時発、キゴマ着9時の飛行機だ。このまま真っ直ぐカスルに向かったのでは、時間が余るので、キゴマから車で30分くらいの所にあるウジジの町に行くことにした。

タンガニーカ湖に面したウジジは植民地、奴隷貿易時代、対岸のコンゴで集められた奴隷たちを一時的に集積しておく場所だった。そこから奴隷たちはさらに1500km離れたインド洋に面した奴隷交易、積み出しの中心地バガモヨへと連れて行かれた。徒歩で3か月かかる旅は想像を絶する苦難の連続だったにちがいない。ボクラは小さなミュージアムのガイド、ケビンの案内で当時の様子を描いた絵画の説明を受けながら歩いた。当時ウジジには布教と奴隷貿易廃止のためにやって来たイギリス人、デビッド・リビングストンが住んでいた(1813~1873)。彼がアフリカ奥地で姿を消して約3年、当時のアフリカ探検ブームと相まってその捜索、発見が欧米メディア、関係者たちの間で関心の的となった。リビングストン博士捜索のためにニューヨーク・ヘラルドは記者のモートン・スタンレー(1841~1904)を派遣した。手作り風の小さなミュージアムの中には多くの興味をそそる画と写真がやや控えめに展示されていた。ボクはケビンの説明を訳しながら、改めて勉強していた。1871年、困難な旅の末スタンレーはようやくその目的を達し、このウジジの村で痩せ細った博士と出遭った。その時スタンレーが発した言葉、「Dr Livingston I presume/リビングストン博士ではございませんか」が後に有名となって伝えられた。雨の中ケビンはボクラを建物から少し離れたところにある博士とスタンレーが実際に遭ったとされる大きなマンゴーの木に案内した。木の下にはデビッド・リビングストンという名前と、アフリカ大陸のレリーフの上に十字架が刻まれた大きな墓が建っていた。墓とそれを見下ろすマンゴーの木は雨に濡れていた。ボクは改めて奴隷狩りと、奴隷貿易の理不尽さ、残酷さを知らされた。バガモヨに着いた後奴隷たちはおもに中東方面、インド、さらにインド洋の島々へと連れて行かれプランテーションで辛い労働に従事した。ボクには一つ勘違いしていたことがあった。それはタンザニアで見るマンゴーの木についてだ。それは植民地時代、ミッショナリー(教会)の布教の折に植えられたのだと思っていた。それもあるが、この辺りのマンゴーの木は、アラブ奴隷商人たちが奴隷をインド洋岸に連れて行くとき道を失わないように道しるべとして植えられたのだという。コンゴなどアフリカ奥地で奴隷狩りためにやって来たアラブ人たちはイスラム教と、スワヒリ語をアフリカ奥地にもたらした。対岸のコンゴ(民主共和国)で今、スワヒリ語が盛んに話されているのにはそうしたワケがある。運転手のジェームスが帰り際に、ウジジの小さな通りを歩くイスラム教徒を見て〝hapa Mislam tupu/おお、イスラムだけさこの辺は!〟とつぶやいたのには思わず笑った。

宿泊地カスルの手前では、車を止めて道の側にある村に入って行った。突然のムズング(外国人を指すスワヒリ語)の訪問に村人たちは驚いたようだったが、子どもたちは直ぐに慣れ、例のボロ布を紐でぐるぐる巻きにした〝サッカーボール〟を蹴ってボクたちと遊んだ。狭苦しい路地にちょっとした歓声が響いた。奥の方には「ビデオ・シネマ」なる小部屋があって若者たちのためにビデオ映画を上映していた。ボクは中国製の椅子の高い自転車に乗り少しだけ走った。到着したカスルの町はアフリカの光に溢れていた。

 

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2016年2月に催行した「現場へ行こう」タンザニア・スタディツアーに関する大津氏の手記。このツアーでは、大津氏独自の現地コネクションと強い安全への意識のもとブルンジから多くの難民が押し寄せるニャルグス難民キャンプを訪問しました。アフリカに30年以上通い続ける大津氏が、ツアーの様子や裏話、旅に関する教訓などを記しています。そこには参加されるお客様への思いも・・・。(連載/全19回)。